近年では様々なゲームで採用され表現されるオープンワールドという世界観。私もニンテンドーSwitchの「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」をプレイして、主人公のリンクと共に、どこまでも行ける世界の広さと新たなる発見の喜びと驚きに浸りきっているのだが、まてよ? この感覚はかつてどこかですでに味わっていたかも?

というわけで思い至ったのは、1996年発売でオープンワールドだった本作「太陽のしっぽ」なのだ。プレイヤーは原始人となり、原始の世界を走り回る、狩りをして肉を食べ、和菓子のようなオブジェを食べ成長してゆく。

困ったことにこの原始人、疲れるとプレイヤーの意思にお構いなく眠りこけ、どんなにボタンを連打しようがこちらの操作を一切受け付けなってしまう。そうなると目覚めるまでひたすら待つしかない。仕方がない、何しろ相手は原始人なのだから。

とはいえ、獣と戦ってる最中や、崖の斜面を滑り落ちている時でさえ眠ってしまうのは本当にはらはらする、というか命にかかわるのでぜひやめて欲しい。世界は結構広くてどこまでも行けてしまい、様々な洞窟や、生き物や、謎のオブジェなどに出会うのだが、マップ機能はないのでプレイヤー自身が記憶するか、メモをとるしかない、仕方がない、何しろ原始人だから。

そんなワイルドな設定や世界観が十分活かされた本作は、最近のオープンワールドのゲームの様に沢山のイベントが用意されていたり、様々なキャラクターとの出会いがあったりということはなく、(実は少しはあるけれど)ひたすらの孤独な道行。だがそこにこそ、私は本作の魅力があるような気がしている。

今の贅沢でユーザーフレンドリーなゲームにはない、粗削りでそれこそ原始的な本作の在り方が、現在のオープンワールドゲームの礎になっているとも感じるのだ。ただただどこまでも行く、という原初の喜びがそこには確かにあった。ただただ、「デデデデデ」という擬音がお似合いの原始人の走りっぷりを楽しんでいた私がいた。

孤独な道行と先程述べたが、主人公の行動が実は種族全体の成長を担っており、食べた和菓子型のオブジェの種類により、腕力、知力、脚力が強くなり、狩った獣の肉を集落に持ち帰ることで種族が発展し人数が増えたり、新たに使える武器の開発が行われたりするのだ。これを踏まえると、旅先では独りぼっちだが、故郷に残してきた同胞のことを思えばマンモスを狩る手にも力がこもろうというものである。

さてそんな元気いっぱいの原始人にも寿命があり、ある日キャラクターの周りに鬼火のようなものが幾つか灯るようになる。これらの火が全て消えてしまった時に寿命が尽きるというわけだ、この演出は実に白眉だ。そろそろ寿命だから引退してっ余生を集落でのんびり過ごすか、という展開にはならず、原始人は命の火を燃やしながら、最後の瞬間まで、冒険の旅を続ける。もの悲しく、鬼気迫る情景である。彼(あるいは彼女)の命が尽きると、画面は一旦集落に戻り、次のキャラクターを選択することになる。

今まで集落を育てて来たなら、きっと前任者を超える人材がいるに違いない。いずれも凄い面構えの猛者ばかりだ。この後は前任者の果たせなかった地域の調査を続けるも良し、全然違う地域に向かっても良し。プレイヤー次第なのだ。

一応、定められたエンディングは存在するが、ただ行く、それだけでこのゲームに価値はあった。粗削りで、プレーヤーに判断を委ねている。そしてライブドローイングを見ているような、そんな印象を受けるワイルドなゲームだ。


うえけんWiki

上野 顕太郎(うえの けんたろう、1963年4月18日 - )は、かなりアナログな漫画家である。デジタルなEngadgetとの接点は編集長が20年前、ゲーム誌編集者であったとき連載を担当したからと言われる。よく使うフレーズは「暇だからな!」......というわけで、かつてプレイした方もいるだろうマニアックなゲームを掘り起こし、あの当時を偲んでいただきます。


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