広報にまつわる人との接し方を中心に、たくさんの失敗と格別な体験を時事ネタ交えつつお伝えしていく本連載。第4回となる今回は、現在のPC市場が構成されることになったあの日の前夜から──Windows 95旋風が吹き荒れた頃のお話です。DOS/V機の登場とともに市場も仕事も大きく変化しました。


こんにちは。前回は「FMR-CARD」や「FM TOWNS マーティー」などの様々な商品を市場投入し、プロモーション活動に明け暮れていた時のお話をさせていただきました。PC市場はバブルとともに新しい技術が投入されて大きく広がり、大規模展示会が国内外で展開されます。そして世の中にDOS/V機が投入され、Windows 95が発表されるのです。今回はそのあたりのお話になります。

熱血マネージャーとの出会いで始まった展示会革命

入社以来、がむしゃら一辺倒でしたがパソコンにもそこそこ詳しくなり、お客さんが求める事もわかるようになってきました。そして、一年中駆り出されるイベント運営にも詳しくなり、事務局を務めるようにもなりました。

そんな頃の不満は「商品の特長をお客様に伝えきれない」ことでした。大々的な広告戦略、全国各地のイベントでの社員インストラクターの説明はすっかり定着しましたが、人数に限りがあります。その頃、同じく大々的に行っていた公共展示会でのブースでは、商品説明を社員が担当し、チラシ配りやエントランスのPRブースを人材派遣会社にお願いするといった流れでした。ですので、お客さんに質問をされた場合、簡単なことであれば人材派遣会社の方でも説明できるのですが、ソフトの事や操作の事になると「ちょっとお待ちください」と社員に聞いて回答をするといった感じでした。

そういった状況の中、以前のような法人向け中心の展示会とは来場者も質問の多様性も大きく変わってきた頃。イベントで映えるコスチュームを着て、商品の説明もバッチリできるコンパニオンを探していました。コンパニオンだけれどインストラクターも兼ねる人材がいないかと。そんな経緯で理想的な会社と知り合う事ができたのです。

この会社は、パソコンの技術を教えている生徒に対し、イベントでの説明の仕事をアルバイトとして紹介していました。基本的な操作は元々パソコンを習いに行っている人たちなので問題なし。そしてものすごくパソコンに関心が高く、何よりもパソコンの最新情報を知れること自体がうれしい! といった感じで非常に積極的。私たちの狙いと一致していたのです。そして、ただ詳しいだけではなく、元々イベントコンパニオンの仕事もしているのでお客様への対応もいい。そんな会社でした。

私も当時、晴海かどこかの展示会でその会社のマネージャーさんにご挨拶をする機会がありました。朝早く会場に行くと、何やらそこのスタッフのみなさんが整列しています。集合時間よりも30分くらい前に集合していると代理店の方に聞きました。「ほう、早いね、真面目だね」と代理店の人とのどかに話をしていると思いっきり叱咤する女性の声が聞こえてきます。手に持ったシステム手帳でスタッフを叱っていたのがそのマネージャーさんでした。

理由を聞くと集合時間にちょっと遅刻したスタッフがいて、たるんでいると……「うっ、怖い」とも思ったのですが、その仕事に対する姿勢に惚れました。お客様と対峙する仕事はとにかく気を抜けません。そのスタッフの言動で企業の評価をされてしまうからです。「人材が一番大切」と、徹底してスタッフ教育を行う姿はまさに私たちの事業の救世主だったのです。

コンパニオンをまとめるのは大変というイメージがあったので、私たちのかなり厳しい要望にちゃんと応えてくれるのか心配ではありましたが、この時「この人なら安心して任せられるぞ」と直感的に感じました。それ以降、展示会での仕事をお願いするようになり、のちに発表されるFMVシリーズのFMVレディとして社員の代わりに全国規模でパソコン伝道師の如く活躍してもらうことになったのです。曹操孟徳が青洲兵を手にしたように、私たちも技術に長けた専門要員を全国津々浦々へと送ることができるようになったのでした。

「就職するにはパソコンが必須」

世の中にWindows、インテルなんて言葉が聞かれるようになった時期。就職セミナーでも「これからはコンピューターの時代。コンピューターが必須になってきます」なんていうテーマでDOS/Vとは何ぞやということを説明していました。年間パソコンの出荷台数が340万台から来年は570万台になる、そんな予測がされている市場規模の時期です。もちろん、この手のセミナーは毎回満席の人気ぶり。私も講師とし教壇に立つことが多くなり、人前で話す事に慣れてきます。

何しろ皆さん非常に真剣な目で話を聞いてメモを取ってくれるのです。それまではFM TOWNSのイベントの進行として、ゲーム大会の司会などが多く、まあそれは事前に学ぶことも多くなく簡単な役目でした。ですが、就職する学生たちの前で話すことはとても重要です。まずは自分がしっかりと市場動向を理解する事、そしてそれをかみ砕いて「だからコンピューターを使わないとだめなんだよ」というシーンを作り出さなければいけない仕事なのです。いやあ、勉強しました。この頃は本当に。

講師としてパソコンを伝える役目をいただいたことでPC業界やその展望について考えるようになった時期でした。業界の地図や数字が分かると、人にきちんと話ができるんだと感じたのです。

NECがDOS/V参入に遅れたわけを勝手に推測する

一方、社内ではOSについて独自路線かAT互換機かの議論がなされている頃でした。TownsOSという32ビットの独自路線を進んでいたのですから、これは大きな方向転換です。しかし、比較的早いタイミングで切り替える判断がつきました。これはその時のFM TOWNSの販売状況がけっして好調でなかっただからだと思います。低価格で提供できる商品を作るためにはAT互換の共通プラットフォームを活用するしかないと独自OSの限界を感じたのです。逆にFM TOWNSがもう少し好調であればそうは踏み切れなかったでしょう。

これをポジティブに振り返れば、NECは98の成功でAT互換投入の判断に遅れが出て、結果としてその遅れが響き、AT互換の世界でNECをキャッチアップできたわけです。そして、その後数年はNECとの切磋琢磨が続きます。成功と失敗は表裏一体、タイミングなんですね。エレベーターで最後に乗った人は降りるときにいち早く出られる。視聴率の取れるテレビ番組が続くと成功者であるプロデューサーの思考で番組が作られて、良い時はいいけれど、新しい変化の波が来た時に乗り遅れて後塵を拝する。世の中諸行無常なのです。

NEC初のAT互換機となるPC98-NXシリーズ

FM TOWNSの挑戦は大規模なプロモーションや広告の投入により、世の中に消費財として個人向けPCのポジションングを確立させたと思います。そして、社内的にはこの大規模かつ大胆な挑戦が新しいAT互換機への早期対応へとつながりました。そして1993年、AT互換機FMV DESKPOWERが発表されるのです。

国際標準機"FMV”の登場

1993年10月。AT互換機初のFMVシリーズが投入されました。FMは「富士通マイクロ」の略なので、「富士通マイクロDOS/Vマシン」という意味でした。この頃はAT互換機とDOS/Vと両方の言い方が流通していましたが私たちは何故かAT互換機という言い方をしていました。当時の常務がいつも「エーテー互換」と言っていたのでその影響かもしれません。最初の発表では法人向けマシンとして甘噛み状態でのリリースでした。

「音を出すにはサウンドボードを刺さなければいけない」「何をするにもデバイスが必要」など、FM TOWNSでは標準搭載されていた機能が備わっていないAT互換機に対して「こんな面倒なものが売れるのか?」と不安に思っていました。でも、売れました。爆発的に。勢いがつくと流れは一気に広がり、その翌年、コンシューマー向けのFMVシリーズ「FMV DESKPOWER」が投入されます。ここから現在まで続く商品群がスタートするわけです。

年4回の商戦でのPR活動は新ブランドを背負うことによりますます活発になり、キャラクターを一新することになりました。当時NECが「バザールでござーる」を活用してキャラクター、店頭キャンペーン、TVCF、雑誌広告、ノベルティグッズなど全方位で展開していたのでそれに対抗するキャラクターを作らなければならなかったのです。バブルな時代ですのでその巨額の広告費に対して多数の代理店によるプレゼンは熾烈を極めました。連日続いたプレゼンの結果、新しいキャラクターが生まれます。それが「タッチおじさん」でした。

「きてみてさわって富士通のお店」というキャンペーンは従来の法人向けビジネスを中心に行っている企業にとって大きな転換でした。会社のイメージを一新するが如く、テレビスポットや店頭を「タッチおじさん」で埋めていきます。

「おじさんと猿」の戦いは他社の様々なキャラクターを乱立される流れとなり、ある意味店頭がとても賑やかかつ販売店の方針・意向が商品の売れ行きを左右する時代となりました。イベントもお店ごとに色を分けていきます。広島や名古屋、大阪の大手販売店と連携したイベントを開催したほか、プロモーションという意味でキャラクター企業との連携はある意味夢のある仕事でした。当時大崎にあるキャラクター会社に何度も足を運び、パソコンの天板にキャラクターを配置して限定販売を行う、というプロジェクトも始めました。TVCFで認知が進んだパソコンの販売はプロモーション戦略によるお客様視点での商品化に進んでいきます。

Word/OASYS/一太郎、市場の論理をWordから読む

オールインワンを売りにしたパソコン、現在では当たり前ですが、当時はまだまだ「ソフトは買ってインストールするもの」という時代。その時代にオールインワンの先駆者としてモデルを投入する中、関心は「どのワープロソフトを採用するか」でした。各社その判断は異なります。FMVでは全てのお客様に使って頂こうという考えのもと、大胆にも全部カバーする戦略をとりました。ワープロソフトと表計算ソフトを「一太郎とLotus 1-2-3」「OASYSとLotus 1-2-3」「WordとExcel」の組み合わせから選べるようにしたのです。

当時の表計算で圧倒的に強かったLotus 1-2-3。危機感をもったMicrosoftはこの市場を取りに来るためにキャンペーン、プロモーションに最大規模の攻勢をかけてきます。当時は「WordとExcelモデルは売れないでしょう」と思っていた人は多いと思います。しかし、現在の市場を見ればわかるよう、結果的には独り勝ちを収めました。何故Microsoftは勝てたのか。私なりに推測すると答えは簡単です。より多くの人に使ってもらうためにプレインストールし、いつでも使える環境を低価格で提供したからでしょう。まずは使ってもらう、活用促進のプロモーション費用をプレインストールしたメーカーに提供する、雑誌社などメディアへのアプローチに力を入れ「Wordは使いやすい」というメッセージの啓蒙を強化するなど、積極的な戦略により市場を抑え、今の地位を手にしたのです。

1995年「かんたんじゃねえか」

そして1995年、Windows 95が発売されます。発売までのカウントダウンを含め、パソコン市場はお祭り騒ぎ。私も発表当日は名古屋の大須でイベントを組んでその時を迎えました。

パソコン市場の花の季節はまだまだ続きます。キャラクターに高倉健さんを迎え、普通のおじさんでもパソコンが簡単に使えるイメージを演出し、「かんたんじゃねえか」というキャッチコピーでTVCFを展開します。そしてお店には「タッチおじさん」それを説明するFMVレディの派遣と、「より多くの人に体験してもらえれば買ってもらえる」という方程式は続きます。

パソコンは人々の欲しいものランキングに登場し、市民権を完全に得たのでした。その市場の好調ぶりに乗っかる形で1996年にソニーのVAIOシリーズがAT互換機が市場へ名乗りを上げるのです。この時は本当に恐怖を感じていました。「ああ、来てしまった」と。

「うちはパソコンじゃなくてVAIOなんで」(当時の広報談)

そのブランド力、音楽などユーザーへのアプローチの近さなど、ソニーは計り知れない力を持つ企業です。NECや東芝といったPC企業とは異なる戦いをしなければいけないと思いました。MDを搭載した時には本当にやられたと思いました。ゲーム以外の趣味の世界でもパソコンを活用するとは。専門分野的に扱われていたパソコンを一般コンシューマー市場へ展開する力があるVAIOは強敵でした。

MD対応のVAIO MX

ただ、当初はデスクトップしかなかったVAIOは敵ではないという論調も社内的にはありました。「MD搭載では売れないよ」と。実際そうだったと思います。ただ、その商品が売れる、売れないという単発的な事ではなく、ソニーがMDを搭載したパソコンを投入したという事実がユーザーに与える影響が怖かったのです。「ソニーがパソコンで音楽を利用できるようにする」という刷り込みは必ず評価される時がくるだろうと。当然ノートパソコン市場にも参入してくると思っていましたし、趣味・嗜好の分野でPCを活用する時代が来たらソニーの持つコンテンツとの親和性を考えれば一気にVAIOが市場を席巻してしまう、そう感じていたのです。そしてその予測は数年後に当たることになります。

そして、1997年。部門内の異動がありメディア担当を申し付かりました。いわゆるプロダクト広報です。今までも広告出稿などでお付き合いがあった雑誌社との向き合い、それは慣れたもんだと思っていました。商品をPRすることにむくむくと目覚め、そして、サラリーマン時代の最大の洗礼を受けるのです……。

今回も長くなってしまいましたね。この続きはまた次回に。

 

PC広報風雲伝連載一覧


秋山岳久

PC全盛期とバブル真っ只中からPC事業風雲急時代までPCメーカーで販売促進・広報と、一貫してメディア畑を歩むものの、2019年にそれまでとは全く異なるエンタテイメントの世界へと転身。「広報」と「音楽」と「アジア」をテーマに21世紀のマルコポーロ人生を満喫している。この3つのテーマ共通点は「人が全て」。夢は日本を広報する事。齢55を超えても一歩ずつこの夢に向かい詰めている現在進行形。